滝乃川学園だより

MESSAGE FROM THE CHAPLAIN

チャプレンからのメッセージ

創立者石井亮一とキリスト教との最初の出会い
吉村 庄司

学園の創立者である石井亮一は、1867(慶応3)年、明治維新の前の年に、九州の現在の佐賀市に生まれました。佐賀鍋島藩の清廉硬直、武士の典型として尊敬されていた石井雄左衛門の三男として生まれたのです。幼年時代から亮一は、やがて世に何事かをなす人物として、期待されていました。上京して明治17年、立教大学校(立教大学の前身)に学びました。入学した理由は、アメリカで応用化学を学ぶために英語力を養うためでした。当初、彼は慈善事業や教育を志していたわけではなかったのです。

では、そんな彼がどのようにして変わって行ったのでしょうか。亮一は立教に入ってもキリスト教などに特に興味を示していたわけではなかったのです。入学の日に寄宿舎へ入った時のこと、先輩数人が亮一に対して、キリスト教について勧め「神よこの罪人を憐れみ給え」と祈祷を始めました。それを見た亮一は「なんだ失敬千万な、誰が罪を犯した」と憤慨し、こんな所にいては、自分の生活が破滅してしまうに相違ないと、解いた荷物をまた行李におさめ、そのまま寄宿舎を飛び出して下宿に入りました。翌日よりそこから通学するようになりました。自分が武士の家に生まれ「論語」などを学んできた経緯から、キリスト教の「人は罪人であり悔い改めなければいけない」と言う考えに素直に同意できなかったらしいです。
ウイリアムス主教の人格に感化を受ける
しかし、味気ない下宿の一室で学校の生活を考えるとき、彼の脳裏を離れなかったのは、立教大学(現・立教学院)の創立者として構内で起居し、学生の指導に没頭していた米国宣教師のウイリアムス主教の慈愛に満ちた微笑と行動でした。そして遂に、再び寄宿舎に戻りました。
そして、ウイリアムス主教の人格・信仰・節操に、大いなる感化を受けた石井亮一は、聖アンデレ教会に通い、A、C、ショー司祭から1887(明治20)年4月10日、洗礼を受け、キリスト者になりました。亮一の洗礼名(クリスチャンネーム)は、「ヨシュア」(「神は救い」)です。その年の12月18日、聖アンデレ教会でビカステス主教から堅信式(信按手式)を受けました。(既提出記事参照)
ウイリアムス主教は、日本聖公会の組織成立に貢献した初代主教ですが、宣教活動のために利用する列車では3等席にしか座らず、常に一般日本人と同じであろうとしました。日常生活では、粗衣粗食、質素倹約につとめ、その分の金は全て伝道活動や慈善活動に費やしました。謙遜で、自己犠牲の精神にあふれ、自らの善行をひたすら隠す姿(陰徳)はキリスト教界を越えて「中世的聖人」と崇敬されていました。京都市と米国ヴァージニア州に建てられたウイリアムスの追慕碑には、「在任五十年道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ」と記されています。
ウイリアムス主教の感化を受けた学生八人衆
ウイリアムス主教の感化を受けた学生八人衆が、アメリカのカレッジの模倣を改めるよう学校当局に、日本の現状に適した学科過程にするよう学区制改革を迫り、受け入れられました。…卒業後学生八人衆は、日本の精神的方面の近代化で活躍しました。当学園の「石井亮一・筆子記念館」に立教卒業時頃と、壮年期(明治30年代後半頃と思われる)に八人が同じ並びで撮った写真が展示されておりますので、ご来園された際にご覧いただければ幸いです。
<写真の配列>
後列:松木(杉浦)貞次郎(立教大学長)、名出保太郎(大阪教区主教)、大須賀(石井)亮一(わが国の知的障害教育の祖)、早川喜四郎(平安女学院長)。
前列:小林彦五郎(立教女学校長)、皆川佐吉(晃雄)、岩佐琢蔵(立教大学教授)、杉浦悦太郎(義道)(東京教区真光教会司祭)。

女子教育に関心があった石井は、卒業後、明治23年、立教女学校(立教女学院の前身)の教頭になります。その石井の生涯を変えたのが、濃尾大震災です。

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