滝乃川学園だより

MESSAGE FROM THE CHAPLAIN

擂鉢山(すりばちやま)で祈るヨシュア石井亮一

「滝乃川学園」とは
JR中央線の新宿から立川駅乗換え、南武線の矢川駅で下車して徒歩8分、甲州街道を南へ少し入ったところにあります。国立市谷保6312です。約2万3601平方メートル(約7、000坪)の広大な理想的な自然環境の地にあります。
広い敷地内には、木々の芽が萌え、野鳥がさえずり、清水が湧きいで、空気も澄み、夏には矢川のせせらぎが涼を誘い、蛍の光に夢を追い、遠くに富士の高嶺を頂く武蔵野のたたずまいを残しています。

滝乃川学園は、日本聖公会の信徒にして教育者・石井亮一によって、1891(明治24)年に、日本で最初につくられた知的障害をもつ人の社会福祉施設です。
創立者石井亮一
石井亮一は、明治維新の前年1867(慶応3)年、九州の佐賀で生まれました。成長して立教大学校(立教大学の前身)に学び、米国聖公会の宣教師ウイリアムス主教と出会い、大きな感化を受け、人生の方向を決定づけることになりました。

亮一は、聖アンデレ教会に通い、1887(明治20)年4月10日、洗礼を受けます。施洗者は同教会の設立者A、C、ショー司祭でしょう。同司祭は、軽井沢に別荘地を開いた宣教師です。亮一の洗礼名(クリスチャンネーム)は、「ヨシュア」です。その名前は、「神は救い」という意味です。その年の12月18日聖アンデレ教会でビカステス主教から堅信式(信按手式)を受けました。

大学卒業(1890・明治23年) 後、亮一は、若くして立教女学校(立教女学院の前身)の教頭に就任します。その翌年の秋10月28日、岐阜・愛知両県を中心とする濃尾大地震が起きました。
上野の擂鉢山(すりばちやま)で祈る石井亮一
濃尾大震災の惨状に心を痛め、同志・巖本善治(明治女学校校長)と共に、同年12月1日上野の擂鉢山で祈り、救済活動を決意しました。

12月30日の夜に名古屋で石井十次と会談し、翌日に岐阜の現地へ赴き、悲惨な状況の中で身寄りを失った多数の子ども、ことに人身売買の犠牲になる危険性のある女の子たち十数名を引き取り、東京へ連れ帰り、日本最初の女医・荻野吟子の医院を借りて「聖三一孤女学院」を設立します。25歳でした。

翌年(1892・明治25年)、現在の北区滝野川に私財を投じ、渡米留学費用もはたいて新築します。そして立教女学校教頭の職も辞して、孤児たちの教育に専念します。

ところが、この学院児の中に二人の知的障害をもつ児童がいたのです。そのような子らにも、同じ人間として、安定した、楽しい、意義のある人生を送らせたいという石井亮一の願いがありました。

当時の日本には、まだそういう施設も研究もありません。心を痛めた亮一は、2度もアメリカヘ渡って知的障害児教育の理論と方法をセガン夫人から学び、1897(明治30)年、アメリカから帰国した亮一は、聖三一孤女学院を、地名に因んで「滝乃川学園」と改称します。

創立当時は、社会福祉に対する理解も公的支援も全く無い時代であるにもかかわらず、石井亮一は、「いと小さき者」に仕えてこられました。
これが日本で最初の知的障害児施設・滝乃川学園の本格的なスタートでした。


■聖三一礼拝堂での礼拝のご案内
毎週日曜日午前10時からです。学園利用者が、聖書朗読係ほかを務めています。
なお第三日曜日午前11時からチャプレン司式の聖餐式(ミサ)説教があります。
✩学園外のどなたでもご自由に参加いただけます。✩人間関係での心の悩み、痛みなどをお持ちの方の相談をお受けします。お問い合わせください。

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